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 No.17

三輪 薫(みわ かおる)


No.17 『写すこと』/続編4 2001/2/10

「写す」ためには自分の写真論を持つことも必要である。21世紀を迎えたことだし、もう一度原点に立ち戻って写真で何を表現したいのか、何を、どのように撮りたいのかを考えてみてもよいだろう。自分の写真論を確立するためには、写真を撮って考えることも大切だが、本を読んだり、映画や絵画・彫刻などを見たり、音楽を聴いたりして内面的な美意識や感受性を鍛えたり、社会へ目を向ける事によって時代を見詰める見識を高めることも重要なことである。ドキュメンタリーやルポルタージュの世界では、おのずとテーマ性に基づいた各自の写真論が確立されてくるものだが、趣味の世界では何となく写していることのほうが多いような気がする。そのような「何となく撮る世界」でも、各自の写真論をはっきり持つのと持たないのでは、表現の幅に大きな違いが出てくる。例えば、同じ花を撮っても撮影者によって作品の出来上がりが随分違う。ストレートに撮って植物図鑑にも対応できるような記録的な撮り方や、詩的でファンタジックな世界を感じさせるような仕上がりもある。それらの描写や表現のされ方の違いは、各自の撮影を支える「写真論」が生んでいると言えるだろう。ポートレートも然り、丸い鼻が特徴の女性をリアリズム的に撮る方法と、出来るだけその人が気にしている部分を避けてより美しく撮ろうとする方法もある。どちらが正解の写し方かは判断できないが、写し手側の写真論によって決まってくるものだ。

写真論の確立と言っても、余り小難しく考えることもない。楽しく撮影を続けるためには、自分が好きな世界を撮り続けることで自然に見えてくるようになる。しかし、漫然と撮っていても駄目で、撮影後に出来あがった作品を検索検討し、自分の表現世界を確認していると自分にとっての「写真論」が見えてくるように思う。そのために、時には写真の講演やセミナー・撮影会などに参加してプロの考え方を聞き、作品を見ることも参考になるだろう。

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