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 No.18

三輪 薫(みわ かおる)


No.18 『写すこと』/続編5 2001/2/24

「写す」「写る」と言っても、写真は所詮カメラがなくてはどうにもならない。絵や文章などと違って道具である「カメラ」の存在意義が大変大きいからだ。機構の進歩が著しい今の時代には、押せば写る便利この上ないカメラが大半である。「写らない」ことのほうがはるかに多いような気がする。だからこそ写真の世界には、数々の落とし穴が待っている。

AE・AF化された小型カメラはとても気軽に撮影できるよさがある。小難しいことは考えなくても安心して写すことが出来るが、余りにも簡単に写るので安易さが出やすいとも言える。つまり、写す前に「写すための思考」が不足しているからだと思う。映像として写っても(フィルムに映像がとりあえず定着することを、この場合は言う。誤解の無いように!)、自分が感動した目の当たりに見た情景や印象がその通りに写ることはまれな場合もある。その場で受けた感動や感銘はそんなに簡単には写らないことが多い。本当の感動は時間の持続性が永いもので、自然風景などでも一見ドラマチックに思える出会いほど現像が出来あがって作品を暫く見続けると、それ程の感動がいつまでも続かないと言う経験がないだろうか。それほど写すと言う事は難しい。写すために経験や時間を要した時代には、思考も同時進行で深められていたように感じている。(またまた、続編へ)

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