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 No.78

三輪 薫(みわ かおる)


No.78 『生きること』/原風景 2001/12/28

「わの会」HPの掲示板に、読者から以前次のような言葉が寄せられた。「“元風景”と言う言葉があり、よく水田、特に棚田が挙げられます。確かに文句無く美しい光景ですが、各自元風景と言うのは異なるはず。私自身について申せば初めて水田を見たのは10歳前後、棚田に至っては20歳過ぎ・・・。私にとっての元風景は『人の匂いのする街並み』です。今でも人臭い所が大好きです。」と。また、「街から“他人を思い遣る人臭さ”が薄くなっています。地方の棚田に限らず、こうした『幼き日の自分の世界』が消え行くあるのを見るのは寂しい」とあった。

「原風景」と言う言葉が新聞や本などで見かけることがある。カメラ誌では自然風景についての話しによく登場するようだ。「原風景」とは一体何なのだろう。田舎育ちの人の記憶にある、山野、田圃や畑、川や湖沼だろうか。特に美しい風景的なものだろうか。

「原風景」と言う言葉は一見カッコよく、確かな意味を持っているようにも思える。しかし、各自が思うこの言葉は以外や曖昧模糊としたものではないだろうか。狭い範囲の意味合いで決め付けることのできない言葉であると思っている。字面では「原風景」のほうが様になるが、「元風景」のほうが実像を伝えてくれるような気がする。今月に開催した自然風景を撮った個展「風色」は、自然に「侘び寂」を感じ、撮り続けてきたものだが、僕の心の中に宿る「原風景」であるとも思っている。

文章などでは読み手側の想像力によって解釈のされ方も違ってくるが、作品などに使えばこの言葉で縛ることにもなり、この言葉を借りないと成立しないものとなってしまうような気もする。「原風景」とは、自然風景的なものではなく、幼い頃の純粋無垢な人の心に宿った「人としての生き様の姿」だとも思う。言葉とは難しい。先達者達がこの言葉を使っても、読み手や見る側が各自の思いで解釈し、自分自身の「原(元)風景」に置き替えればよいだろう。

伝言板に寄せられた「人の匂いのする街並み」も確かにその世界であろうし、「幼き日の記憶の世界」が消え行くのを目の当たりにするのは、確かに寂しいものだ。

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