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 No.131

三輪 薫(みわ かおる)


No.131 『写す』/作品審査 2002/8/6

写真などのコンテストの作品評価もスポーツなどの判定に似た部分があるが、表現レベルを比較するのは難しく、その評価はかなり曖昧なものと言えるかも知れない。明らかに表現レベルが違う作品であればプロなら誰が見ても同じような判断を引き出せるが、スポーツの陸上競技のようにタイムなどではっきりと判定できるものでもなく、好みや主観がどうしても入り込む。今話題のフィギアスケートの分野と似ている。また、時代によってその評価も変わる可能性も高く、絶対評価など存在しないと思っている。

先日知人の娘さんから公募の賞に入ったと知らせが届いた。最高賞ではなく、次点の奨励賞だった。その選評に、前前回次点を受賞し、前回最高賞を受賞した彼女の父親の作品と傾向が似ているからと言う論議もされたとあった。似ていると言っても違うテーマであり、作者本人は親子と言えども同じ人ではない。しかし、問題になり、最高賞には届かなかった。勿論、僕はその作品の全てを見比べていないので何とも言えない。だが、仮に親子でなかったら、ここまでの見解は出てこなかったかも知れない。評価基準が曖昧な分野だからこその結果とも思えるのだ。それにしても凄い親子がいるものである。

今担当しているカメラ誌の月例部門の審査にも同様のことがある。他人の作品でも、僕が審査を担当し一度評価した作品と類似点があると余程のことがない限りは同じ評価を受けることは難しい。しかし、審査員が交代したら別問題で、初めての審査には全て公平な土俵に上がるのだから、不思議と言えば不思議なのだ。前回の審査で同じ被写体を同じ日に撮影したと思われる作品があった。僕より先に審査された作品は別のビギナー的な部でトップに選ばれていた。僕が選んだ作品のほうが表現レベルは上だったが、類似作品として問題になった。結果としては撮影時間の違い、作者の住まいが全く違うことなども理由で、編集長の了解も得て初期に決めた特選にすることが出来た。このようなことが問題になる前例となってしまった原因に、柳の下のドジョウ的な応募が後を絶たないこともある。審査員や主催者側だけが原因ではなく、そのあおりを食っているのが真面目に作品創りと取り組んでいる人達である。

コンテストなどへの応募は、身近で自分の作品の講評などを得られない環境にいる人には、自分の表現レベルを確認出来る目安ともなる。しかし、ここにも落とし穴はある。つまり、評価する側が応募作品に対して公平に判断できるかが問題である。僕の評価が正しいとは思わないが、コンテストなどの審査員を依頼されて引き受けるのは、それなりに様々な分野の作品創りに関わり、作品も発表してきたからである。だから、作者の立場に立って作品を見つめ、多分野の作品であっても僕なりに判断する自信がある。しかし、ある特定の分野の写真しか撮ったことがない審査員もいる。それらの人はどの様な基準で作品を判断しているのだろうか。一方で、写真とは違う分野の作家や評論家、批評家なども加わる審査もある。合同審査などで、それらの人の評価や判断基準を観察していると、以外と面白い視点もあることが分かって興味深い。これはこれで、ある面正しいことかも知れない。曖昧さが逆に面白く、違った分野の方の審査基準によって新たな可能性を引き出すこともあるだろう。曖昧でなかったら審査員の交代など必要ではなく、審査員が替われば評価も変わるし、表現の可能性も高くなることもある。勿論、審査員には自分が出した結果には、最後まで責任を持つのは当然のことと言えるが。

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