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 No.132

三輪 薫(みわ かおる)


No.132 『写す』/自分の心に響く作品創り 2002/8/11

若い頃には余り興味がなかった自然風景を撮り始め、いつの間にか20年を越えてしまった。不思議なものである。僕の作品創りは心象風景から始まり、人物、造形、ルポ、スナップ、花等を経て自然風景に移行してきた。フリーになって20年余り、その間に16回の個展も重ねてきた。ある時期には、次々と一見違う分野の個展を開き、嬉しくない言葉が聞こえてきたこともあった。風景なら風景を一途に撮り続けることが評価の対象にしているからだろうか。しかし、被写体が何であれ、自分が撮る世界である。何をどのように撮っても他の人とは違う表現になるはずで、自分が信じる世界を発表するのは自由である。

作家にとって作品とは生き様の証であり、個展などはその生き様を自己確認し、世に問う行為なのだと思う。だから、撮影分野など関係なく、個展などはその時代に生きた作者の生き様の記録だと思っている。写真に限らず、作品を創る姿勢と表現方法や考え方には、自分独自のもの、他の人とは違う個性的なものでありたいと思っている人も多いだろう。しかし、写真の場合は多くの人が撮った作品を混ぜてしまうと、1枚の写真を見て誰が撮ったのかを判断するのは難しく、自然風景でオリジナリティーを出すのは大変なことだ。特にその人しか撮っていない撮影地ならともかく、何処にでもあり、誰もが撮影できるような風景の場合は尚更である。自然風景は説明的な描写になりがちで、だからこそ作品としての表現が難しいと思う。

自然に対して、どの様に撮り組むかが作画と表現に対してのキーポイントになると思っている。何処の何を撮るかと言うことよりも、相対した被写体にどの様な思いを抱いて撮るかと言うことが大切と考えている。僕は、出会いの風景が見せてくれる心に響く表情に重点を置いた作画で、表現したと言える作品創りに魅力を感じている。しかし、年に数万回シャッターを押しても大半の写真は説明的になり、これはと思う心を記録し、表現できたと言える自信作はほんの僅か、数える程度しか出来ない。何処の何を撮ったと言う写真よりも、写し手側の心や気持ちが表現された作品に興味が湧く。作品は表現内容だと思っている。人の心に響く作品創りをしたいが、本当に難しい。

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