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 No.133

三輪 薫(みわ かおる)


No.133 『写す』/写すと写るとの、大きな違い 2002/8/20

カメラの進歩に従い、間違いなく写ることが当たり前になっている。だからこそ、「写す」ことと「写る」こととの違いを心して考える時代になってきたと思う。以前、指名を受けて僕の作品で構成されたカレンダーが、「全国カレンダー展」で最高賞を受けたことがあった。この時多くの方にお送りしたのだが、真っ先に電話をくれたのが当時世界的に活躍している彫刻家の方だった。「三輪さんらしい作品だね」と言ってくれた。分野は違っても、同じ表現世界に身を置いている者としての共感溢れる嬉しい言葉だった。彫刻や絵画などと違って自分らしさを映像に引き出すのは難しいからだ。久しく会っていなかったので、かなりの時間作品創りについて話し込んでいたのを覚えている。

美術分野の方々は、表現とは、自分とは何かを絶えず考えているように思う。写真のように簡単には作品を創れないし、その分野で生き、食うことも難しい。随分前に先の方や他の作家の方と話したことが何度もあった。初めて会う時、「三輪さんは、どうして生活しているの?」と聞かれることが多かった。当然、「写真を撮って食っていますよ」「生活費も写真に関わる仕事で何とか賄っています」と答えていた。すると、「いいねー、写真の世界は」と、言葉が返ってきた。聞けば、美術分野では、その道だけで生活の糧を賄うのはほんの一部の方だけと言うことだった。それだけ、その道で生きるのが難しいと言うことだろう。だから、作品創りにも人生を掛けて真剣になる。だからとは言えないが、押せば写ると思われる写真には、他の表現分野に比べ安易さがつきまとうように思う。

今、世の中に氾濫している作品と呼ばれる写真の中に、美術分野などの方々もうならせ、共感を得るものがどれだけあるのだろうか。勿論、僕の作品も含めてである。以前、紅葉時に30日くらい撮影し、数百本ほど消費したことがあった。しかし、自分の生涯に残せるレベルの、自分の心に響く作品は余り見当たらなかった。撮影時の感激や印象を人生を掛けた作画と表現で写し取れなかったと感じざるを得なかった。心の隅に安易さが残っていたのだろうか。勿論、それなりには発表できるレベルの作品は結構出来たように思う。しかし、自分の生涯の作品としては心残りの出来だったのである。

今日発売になった隔月刊・風景写真の巻頭口絵特集は僕を含めた3人の競作である。1人10ページ以上の紅葉の作品が掲載され、単写真では見えてこない紅葉を撮る姿勢が分かるし、作画などが人それぞれで興味深い。エッセイを読んでまた作品を見ると、その人の風景観も見えてくるような気がする。

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