Toppageへ
 No.136

三輪 薫(みわ かおる)


No.136 『写す』/美的な風景と写真 2002/9/1

現在、自然風景を20年以上撮り続けているが、様々なものにカメラを向けてきた僕にとっては自然風景とは随分長い付き合いのような気がする。大体10年近く撮り続けたら個展を開催し、また、次のテーマに取り掛かるという姿勢で生きてきた。勿論、同じテーマだけを追い続けるのではなく、途中からは同時進行で様々なテーマと取り組んできた。結果として、この30年で9月の個展を含め17回の個展を重ね、フリーになってからの20数年で16回の開催だから、写真家の中では多い方だろう。

僕が写真を本格的に勉強したいと思った1970年代の初めは、フォトジャーナリズム全盛だったような気がする。学生だった僕が普段お付き合いしていたプロのカメラマンや写真家は報道関係が多かった。公害裁判の初めである四日市訴訟の判決時には、裁判所の認可を受けた原告側のカメラマンとして取材していた。その時の僕の姿は、ドキュメント写真家の樋口健二氏の写真集「四日市」に掲載されている。この写真集は僕の宝だ。人の生きるべき姿、姿勢や道とは何かを教えてくれ、学べ、僕の体験が記録されているという理由もある。

しかし、僕は報道系には進まなかった。写真の道を自分の人生の生き方に選んだのは、写真という手段で自分を見つめ、何かを創造したかったからである。写真でなくても良かったが、絵画などの美術・音楽・演劇・歌・小説など、何でも良かった。しかし、自分がそれ程の能力があるとは思えず、最後の手段として写真を選んだ。物書きには、フィクションや私小説などがあるように、同じ文字を連ねて表現する分野でも全く違うように思われるものがある。結果として、僕は写真で私小説を目指した。社会の中で生きている以上、その時代を良く見据えないと今の自分も見えてこないような気もしている。だからと言うわけではないが、自分自身を写真という表現手段で見つめる前に、社会をレンズを通して見つめることによって少しだけでも冷静に世の中のことや自分自身を眺めることが出来るのではないかと思っていた。だから、社会にも目を向け、報道的なものにカメラを向け、ルポルタージュフォトや社会を被写体とした心象風景も撮ってきた。その上で自分を見つめ、「三輪薫」とは何かを、追求したいと思ってきた。最近の個展は自分自身を見つめ直すためのもの。だから、会期中は毎日会場にいて、自分の作品と向き合っている。

今の僕の最大のテーマは「三輪薫」。しかし、自分をテーマにしても具体的には何を撮り、どの様に表現してよいか当時もよく分からなかった。悶々とした20代が過ぎ去って行き、20年数年前にフリーになり、「美」を追求することにした。

公害のヘドロを汚く撮っても訴求力はそれ程ないが、逆にこの世のものとは思えないほど美しく撮ることが出来たら、それこそ空恐ろしく感じるのではないだろうか。「逆も真なり」。美とは、字面だけで感じる世界ではなく、その裏に秘めた意味合いや真理を噛みしめることが大切と思っている。人の生き様も、心も、「美」が大切だろう。

美を理解できないと、本当のところは見えてこないような気がする。僕も物欲、金銭欲、名誉欲、権威欲など様々な欲を持っている。本音のところでは、持ち合わせていない方が珍しいのではないだろうか。しかし、それらに執着したり、余り執着しないのは本人の資質の問題だとも思っている。心の中に絶えず美を意識していると、俗っぽい欲に執着する事も少なくなり、自分の生き方の本質に迫ることが出来る様な気がする。美的な自然写真に惹かれ、撮り続ける理由もそこにある。自然には、人の生き様のように邪念は見当たらず、感じないし、信じて裏切られることもないからだ。

戻る