三輪 薫(みわ かおる)
No.138 『写す』/写真の常識 2002/9/9
写真には記録性と言った他の分野よりも優れた特徴がある。しかし、音楽や絵画や小説などと同様な表現媒体であるとも思っている。音楽には譜面があるが、演奏家やオーケストラの指揮者によって奏でられる表現には、同じ曲でも様々なものがある。写真も同じように基本となる写真のプロセスがあるが、撮る側の自由さをどれほど活用しているかと言えば疑問な点も多い気がする。時には非難を受けるかも知れないが、音楽でも演奏者や歌い手によって自由気ままに表現してもおかしくはない。写真も作者によって同じ様なものを撮りながらも、各自の個性が溢れた表現が望ましいと思っている。
写真にも「こうでなければならない」と言うような決まりはなく、各自が思い考える表現目的に対しての作品創り方法などは人様様なはずである。カメラブレや甘いピントなどは禁物であるが、作品表現によっては逆に作画を引き立てることもある。ロバート・キャパの写真に、ブレがあるため臨場感が溢れ、ブレが生きたものは余りにも有名である。結果としてその写真からなにがしかの感銘などを観る側に与えることが出来ればよいと思っている。
今、京セラ・コンタックスサロン銀座で開催中の「ファインプリント展」では、ファインプリントの常識を考慮せず、僕流の考え方で撮り、プリントした作品を展示している。ファインプリントと言えば、アンセル・アダムスの「ゾーンシステム」によるハイライトからシャドウまでを実に綺麗に引き出した見事な階調で見せるプリントを思い浮かべる。しかし、階調が見事なことと、作品表現として観る側に感動や様々な想いを抱かせられるかと言う点は別物であると考えている。展示している作品には、真っ白や真っ黒なトーンはない。白の手前から濃いめのグレーまでで構成されたものが大半である。超温黒調の軟調な印画紙と割とフラットなネガによって引き出した表現にしたのには、僕なりの確固たる理由がある。まず、表現目的があり、それを達成するための方法として、撮影のフイルムの選択とフイルム現像、そして印画紙の選択やプリント方法などが後で付いてくる。今回、雪景色や霧に包まれた情景などが多いためか、「ハイキーやオーバー露出が多いですね」と聞かれることが度々である。本音で言えばハイキー仕上げではなく、被写体そのものが明るく、白っぽいだけで、全て標準露出値なのだ。
それらの表面的なことではなく、今回の作品は自然風景なので、その場に立った時に感じた空気感や臨場感を引き出すために、僕流の方法論で構築した撮影から仕上げまでのプロセスを実施しただけである。ここには、「写真はこうでなければならない」と言った写真界の常識は毛頭ない。あるのは、「あるがままに描写し、観る側に、素直に伝える」ことだけなのだ。引き算されたモノトーン世界によって、僕の心模様の写し絵が、色を加え、僕の代理体験をしていただけることに繋がってくるような気がしている。写真には基本的なプロセスによって創り上げるものはあるが、世の中で伝えられる方法論に縛られた描写ほどつまらないものはない。価値観は様々で、各自の自由なのだから、もっと鷹揚に構えて気ままに創って欲しいと思っている。
それより、何故写真を撮るのか、自分独自の表現とは何かを考え、追求し、他の表現分野にも通じる作品創りをする事に邁進することが本命と思っている。被写体に相対した時、感じた色合いの再現がとても大切と思う。カラー写真でもモノクロ写真でも僕は僕なりの色を持っているし、被写体に対して絶えず色の再現性を考えてフイルムなどを選択している。大切なのは表現目的であって手段ではない。何でもOKなのである。
僕のモノクロ作品から、波の音、木々の葉のささやき、霧の湿感、臭いなどを五感で感じていただけたら本望である。