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 No.143

三輪 薫(みわ かおる)


No.143 『生きる』/昭和の名曲の復活 2002/10/9

最近、僕らの世代が若い頃に聴いていた日本の「昭和の名曲」がカバーバージョンとして復活してヒットしている。歌っている本人達も、曲のみならず歌詞がよく、数十年前のヒット曲なのに、今聴いても新鮮だと言っている。本来、歌詞は曲と同様大切なもので、歌い継がれて行く名曲はどの曲も歌詞がよいと思う。先日見ていたテレビで、今の歌謡曲などには意味不明で、歌詞としてはなっていないものも多いと、コメンテーターの人が嘆いていた。僕も以前からそのように思っている。日本の歌を聴いていて心に響いてくるのは、曲の心地よさだけではなく、歌詞の意味合いなどが美しく、聞いた後にも心に残るからでもある。撮影時の残像にも似ているものがある。

僕らの子供の頃に流行った歌謡曲は、一旦ヒットすると何十年もその歌手が歌い続けても飽きられることはなかったように思う。だから、ヒット曲が数曲あれば、その歌手は一生表舞台で歌うことが出来、一線で活動も出来たのだ。今は違う。数カ月も経つと、まるでそのような曲などなかったかに思えるほど次々に現れる曲によってこの世から隠れ、大半の曲は忘れられてしまう。まことに寿命が短くなっている。歌手も消費され、その歌手と共に歌も廃れて行くのだろう。好き嫌いはあるだろうが、美空ひばりに代表されるような歌手はもう現れないだろうし、このように歌詞を大切にして歌う人も、以前に比べ少なくなっているような気がする。

名曲は古くならず、何時までも歌い続けられる。面白いのは、歌い手が変わると印象や感銘も違って聞こえてくることだ。当然のことだが、前に歌っていた歌手と同等か、それをも増して聞こえないとカバーする意味もないと思う。以前、フランク永井が「君恋し」という歌をカバーし、本来の歌手が一本調子の歌い方だったのを、心に響く歌い方でその歌が蘇った事を子供心にも覚えている。何故蘇ったのかと言えば、歌詞の意味合いを大切に受け止め、心情豊かに歌い上げたからである。今の歌手の多くにも、このように歌詞を大切にした歌い方を望みたい。しかし、作り手側の姿勢にも責任があり、歌を束の間の消費物としての考え方を変えないと難しいだろう。

同じ事が写真にも言える。押せば写る写真である。粗製濫造か、そうでないかは、観る側ではなく、創り手側が判断しなければならないだろう。単なる記録なら兎も角として、表現したと自信を持って言える作品はそれ程多くは出来ないと思っている。

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