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 No.144

三輪 薫(みわ かおる)


No.144 『写す』/見ることと、知ること 2002/10/10

写すという行為の中には、その前に対象をよく見て、何を写したいのかを自分自身が知り、確認することも大切と思っている。その「見る」行為に費やす時間はほんの一瞬であったり、かなりの長時間を有しなければ「知り、確認する」ことに繋がらないこともあると思っている。最後は「己を知る」と言うことだろうか。以前、ある人から「三輪先生は、撮影会で積極的に指導をしないと言う噂だ」と言われた。何故そのように言われるか、よく分からなかった。僕の指導方針は、まず本人が対象に対して心が動き、「撮りたい」と言う気持ちを大切にして欲しい、と思うことを基本にしている。だから、時々受ける「何を撮ったらよいのでしょうか」と言う質問には、「直ぐに撮らなくてもよいから眺めていて、何か心が動かされたら、そこを撮ればいいんですよ」と答えている。何処をどの様に撮るのかは、二の次なのだ。どの様な場面に対しても、このように撮らなければならない、と言うような方法論・正論など存在しないからである。

自然風景の撮影会などでは、真っ先に飛び出してカメラを構えるのは僕である。何故か。皆さんをご案内し、その場で何に僕が感動したのかをまず知って欲しいからだ。自然風景の撮影会やツアーでは、撮影地を決めるのは講師の役目である。案内だけして、講師が撮らなければ、どうしてこの場に案内されたのかが言葉だけでは伝わらない。しかし、先のことを言った人は「講師はカメラを持たず、皆の周りをうろうろして、アドバイスするのが務めだ」と言うものだった。巷にはそのような撮影会もあるらしい。

気持ちは分からないではないが、参加者の方々が感動しているかどうかが分からないまま、バスから下ろされた場所で何を伝え、何を期待しているのか、講師としては時には理解を超えることもある。だから、まず講師である僕が撮影する。すると賢い参加者は僕が何に感動し、心が動かされたかを観察している。そして、自分も感動した場面を撮った後に、僕のカメラのファインダーを覗きに来る。自分との感動やフレーミングなどの違いを見つけ、改めて対象から受ける感動を求め、観察し、捜し、撮影している。ただ単に案内され、アドバイスを受けるだけなら、自分で勝手に行った方が安価で済むだろう。撮影会やツアーなどでは、講師の持っているものを掴んで、盗んで帰ることも参加するメリットになるような気がするが、如何だろうか。

6月に初めて担当した全国組織のクラブの撮影会で、参加者から「講師の作品をこれだけ見せてもらえたのは初めてで、嬉しく、感動しました」と多くの方に言われた。えっ、と言う思いだった。その時にはポラロイドバックを使ったりデジタルカメラで撮ってその場で見せたり、デジタルカメラで撮ったその日の作品も全て毎夜のセミナーで披露した。また、講師の作品をスライドで見せるために準備するのは当然のことで、プロなら、撮影した全てを皆さんにさらけ出す自信も必要と思う。なのに、指導者の作品を観たりファインダーを覗くよりも、撮影中に皆さんの周りを巡っていることを期待する人がいる現実に驚いた。しかし、僕は自分の撮影に専念しているわけではない。講師として、皆さんの求めるフレーミング修正などのアドバイスもしている。また、撮影中にもそれとなく皆さんの撮影ぶりも観察し、疑問に思った時には出掛けて逆に質問することもある。しかし、個人的に撮影している時には、講師業の仕事ではないので、誰が来てもファインダーなど見せる事はない。当たり前のことである。その点、遠慮なく講師のファインダーを覗き、自分が切り取った世界との違いを「確認」出来ることが撮影会やツアーへ参加した人の特典である。僕を批判する人達は、そのことを理解していないし、それまで、その人達に付き合った指導者は、僕が撮影会には重要と思うことを、重要と考えていないだけである。どちらが参加者にとって嬉しく、正しい指導方針かは分からないが。

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