Toppageへ
 No.160

三輪 薫(みわ かおる)


No.160 『創る』/生写真の可能性 2003/1/4

写真を表現手段にする場合、オリジナルのプリントで見せる場合と、印刷などで伝える方法がある。僕が選び、拘っているのは生の写真(オリジナルプリント)である。画家や舞踊家などが、画集やビデオ等で自分の作品や踊りを見て欲しいと考えているのではなく、やはり肉眼で生の自分を見て欲しい、生でないと伝えられない部分が大半ですよと、言っているような気がしている。

世間に出回っている印刷による大半の写真は、やはり銀塩のオリジナルプリントのほうが再現性が勝っていると思う。階調の豊かさは絵画などに比べても、生の写真が一番とか。印刷では不可能な再現性が、写真のアナログ世界では可能な部分もある。肉眼では、もっともっときめ細かく見ているはずだ。勿論、トーン再現によっては、随分お金を掛けた印刷だと、時には別の観点からはプリントより優れた再現性を見せることがある。以前、僕の作品を使った京セラ・コンタックスカレンダーや、その受賞記念写真展を開催した時に印刷会社が作ってくれたポスターなどは、素晴らしい出来だった。

物書きの方のオリジナル原稿を見る魅力は何なのだろうか。文章の内容を知るだけだったら、印刷の文字でも意味合いは十分伝わる。だから、その人なりの癖のある文字を見ても、作品内容が変化するわけではない。その辺りが、写真や絵画や、舞踊などとは違っているのではないだろうか。ただし、写真の世界には、ジャーナリズムの分野があり、ここでは作品として僕が拘るトーン再現のクオリティーよりも、多くの人達に真実を伝えられるかどうかが問題になり、伝達手段として考える方がよいだろう。オリジナルプリントは、作者の真の姿を間近に垣間見ることが出来る手段とも言える。

戻る