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 No.163

三輪 薫(みわ かおる)


No.163 『生きる』/はかない命 2003/1/19

秋山庄太郎先生の永眠には、僕の人生を重ね、思い描くことも多い。3月に開催の写真展の撮り下ろしのため信州に行っていた先日、夜中に秋山先生の訃報を知人からの連絡で知った。暫くお会いしていなく、以前お会いした時は何だか元気がないな、とは思ってた。15日に日本フォトコンテスト編集部で3月号掲載の対談をした時、元アサヒカメラ編集長の岡井さんと挨拶を交わし、明くる日に行う「林忠彦賞」の選考前の作品を下見しているのを見て、秋山先生は元気かなと、思っていたのだった。この選考会の途中で倒れ、救急車で病院へ運ばれたそうだ。

秋山先生は親分肌で、包容力もあり、僕のような者にも気軽に声を掛けてくれた人だった。名古屋の写真学校時代に、卒業後、上京して誰かに弟子入りしたいと言っていたら、二科会会員の先生から秋山先生を紹介するよと、声を掛けていただいたこともあった。僕が目指す方向とは違ったため、弟子入りには至らなかった。しかし、弟子修行を終えた後、直ぐに結婚し、仕事の当てもなく就職した写真学校の校長が秋山先生で、教務の立場としてスタジオには時々お邪魔し、色々お話を聞いたものだ。

7年ほど務めた後、突然退職すると決めた時には、後任が仕事をしやすいようにして欲しいとのお願いを、校長としての秋山先生に様々な要望を遠慮なく申し出たのだが、当時の若造の僕が言いたい放題だったのに、黙って聞いていてくれた。包容力のある、懐深い人は違うと、凡人には真似の出来ないことと思い知らされた。
また、同僚が開催してくれた送別会には、秋山先生も呼んだからと言われ、本当に忙しい中を来ていただき、ビックリした。あげく、「これから付き合え」と言われ、赤坂に飲みに連れて行って下さり、一職員としては破格と思われる心遣いを受け、嬉しさは言葉では表せなかった。

また、先の生活ことなど全く考えられず、無謀にも準備しないで辞めるに当たり、「どうするんだ」と聞かれ、「用意万端整えて辞めるのではなく、この仕事は僕としてやるべきことは終わり、もう展望がなく辞めるのだから、何もありません」と伝えたところ、ある仕事を世話して下さった。結果的には、小遣い程度だったが、その気持ちはとても嬉しかった。
その後、会う度に「どうしてる(何とか食ってるか?)」と声を掛けられ、「何とかやっています」と応えていたのが、懐かしい。個展にも度々会場に来ていただいた。
若い頃など、林忠彦先生も同様だったが、このような大先輩の先生と口をきけるなんて思いもよらないことで、最初は夢心地だった。林先生にも、よくしていただいたものだ。

しかし、人生は、はかない。まだ、82歳である。ここまで生きた人にとっては、決して年配ではなく、生涯現役で活躍されていたので、もっと、もっと写真界のご意見番としても長生きして欲しかった。先生のお弟子さんは多く、写真界でも多くの人が大活躍している。本物で、人間的にも包容力のある人は、弟子達を羽ばたかせて素晴らしい活躍振りを見せるものだ。僕には弟子をとる自信もないし、資格もないかも知れない。
今年七回忌を迎える亡き父と、他界した年齢が同じだったこともあり、深い感傷に浸っている。
合掌。

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