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 No.164

三輪 薫(みわ かおる)


No.164 『生きる』/子供っぽい性格が何故悪いのか? 2003/1/25

僕は今年55歳になる。それにも関わらず、家庭の中でも外の世界でも、子供っぽい性格だと言われることが多い気がする。悪いことだろうか。社会生活に理解を示しているような大人の方が、己可愛さで、何故か世の中に迎合している生き方のような気がすることも多い。よいもの、よいことは、よいと言い、そうではないと思い感じることをダメだと言うことが子供っぽいと判断され、その言葉は危ないとも言われる。つまり、多少疑問に感じても「黙り(だんまり)」を決め込む方が、いつの時代でも大人と見なされることもあるようだ。何故だろうか。

世の中に迎合することによって今の自分をより有利にしたり、汚いものには蓋と言った生き方こそ、大人の言動なのだという、変な風潮があるような気がしてならない。子供っぽい僕には、理解を超えた世界である。小さな子供は、何かに疑問を感じると「何故?、どうして?」と聞く。その返答に困る大人は、最後には子供の言葉を遮り、黙らせてしまうのが落ちである。純粋な子供は、大人不信に陥ることになる。年齢的に大人になった人が、そのような小さな子供と同じ疑問を感じても、言ってはいけないなどと誰が決めたのだろうか。

僕は、結構ストレートに物事を言うタイプの性分である。だから、回りの人達がひやひやし、忠告もしてくれる。疑問に感じたことをストレートに言って得したことは少なく、どちらかと言えば、損をすることが大半だ。しかし、間違ったことを言っているのではない。なのに、「どうして?」、と言いたいのは僕の方である。

我が家の子供達も既に選挙権を得た大人の年齢になっている。しかし、我が家には子供が一人いる。僕である。しかし、何時までも僕は子供でいたいと願っている。変な大人になったら、僕が信じる写真の表現世界など、到底撮れそうにないからでもある。写真は「心を写す」世界である。変な大人になれば、世の中の要求に合わせた、売れたり、支持される写真も撮れそうだが、僕には程遠いことだと思っている。しかし、自分のさらけ出した素直な心を写した作品は、人の心を打つと信じている。だからだろうか、昨年9月に開催したファインプリント展では、多くの方の共感を呼んだと思っている。もし、この時の作品が、他人を意識したものだったら、そのような共感など得られなかったかも知れないからだ。

今の政治家や官僚達が利己主義ではない本音で語り、生き、人としての仕事をていたら、日本だけではなく、世界も随分平和で楽しい世の中になるのではないだろうか。今、不景気と言われている時代、お互いの意志疎通が乏しく、本音で尊重しあっていないから益々不景気になり、組織内の人間不信に至り、心が貧しくなっているような気がしてならない。甘い考え方かも知れないが、上に立つ人ほど目先の利己的な利潤や保身を追求せず、素朴な子供の気持ちに立ち返り、真摯な気持ちで生きて欲しいと願っている。

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