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 No.168

三輪 薫(みわ かおる)


No.168 『生きる』/不思議な出会いとの巡りあわせ 2003/2/15

今月始めに行った沖縄では、二日目の早朝撮影後、日々の疲れが出てホテルに戻って暫く休んでいた。その日は早朝撮影後、現地の「わの会」会員の方達と北端の辺戸岬まで行く予定だったが、撮影スケジュールも大幅に変更せざるを得なくなってしまった。午後起き出してホテル近くに出掛けた途中、娘からの電話で停車した。その場所では、防波堤のため車窓から見えなかった海岸が干潮となって素敵な表情を現していた。電話をくれた娘に感謝しながら撮影した後に行った所は真っ白な砂浜。雲の表情もよく、空を映し込んだ海面は何とも言えない不思議な色合いに満ちていた。刻々と移り変わる色合いや光の変化もあり、最後には束の間だったが一面に広がる雲も赤く染まってくれ、最後は僕好みの素敵なブルーの世界で締めくくってくれた。体調の悪さが、撮影にはよい巡り合わせをプレゼントしてくれたと思っている。

この様なことは時にはあり、ツアーなどの仕事ではなく、個人的に行動している時は無理して動かないようにしている。動けばそれなりのチャンスはあるだろうが、それが全てでもないような気がするからだ。巡り合わせとは不思議なもので、何時よいチャンスに出会えるかは分からない。自然相手では、度々訪れている所やロケハンを重ねていても、予測には限界がある。

僕が初めて勤め人になり、仕事の環境に限界を感じて諦め、辞めてしまった時も人生の一つの巡り合わせかと思っていた。だから妻に先の生活不安から泣かれても退職の後悔はなく、開き直って暫くのんびりと過ごしていた。贅沢とも思えるこの期間が、今の僕を支えてくれていると言っても過言ではなく、人生面白いものである。

現在、リストラも多いが、明日や数ヶ月先の生活が心配だと言うのでなければ、天が与えてくれた休息と、これから先を生きるための方針を考える時間を与えられたと考えるほうが気楽だろう。こんなことを書いていると、お前は食えるからだ、と言う言葉も聞こえてきそうだが、違う。僕ら自由業の者には、勤め人の方のように給料や、退職金やその後の保証は何もないし、元気な今を精一杯生きるためにお金は貯めるものではなく使うものと、実行しているから蓄えようもない。細々と稼いだものを今の自分に掛けるため全てを注ぎ込んでいるので、傍目には優雅そうに見えるだけなのだ。つまり、自分の人生に対する価値観の問題である。今出来ることに全てを掛けるか、将来の安心感に掛けるかの違いである。しかし、お金を貯め込んでも歳をとり病んでいたらなにも出来ない。ただ単に生きているだけの人生には興味が持てない。いや、これは年金など当てに出来ない自由業の悲哀かも知れない。長年企業や役所で勤め上げた人とは違って、細々とでも食えないキリギリスのような老後の人生が待ち受けているからである。だからこそ、妻や子供には申し訳ないが、今の自分に嘘を付かない生き方を一生懸命しているだけなのだ。

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