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 No.173

三輪 薫(みわ かおる)


No.173 『写す』/トリミング 2003/3/19

写真にはトリミングがある。撮ってから不必要と判断した部分をカットすることである。しかし、絵画や版画などにはなく、100号で描いたものを描き終わってから50号に貼り直して発表した等という話しは聞いたことがない。版画も然り。写真を絵画や版画などと同様とは言えないまでも、安易なトリミングは禁物と思っている。

余程のことがない限りは、ファインダーで見て撮ったままを再現することがベストと考えている。しかし、一部にはまだトリミングが当たり前という考え方も依然として残っているように思う。安易なトリミングを繰返しているとフレーミングが甘くなり、撮る時の緊張感がなくなってしまうだろう。フルフレーミング主義を貫くと、しっかりとファインダーの中をよく見て撮るようになり、状況判断力も高くなる。スナップなどでは一瞬に現場の状況を判断し、カメラポジション、使用するレンズの焦点距離、フレーミング、絞り値とシャッター速度の関係などを判断しなければならないからだ。ましてや、自然風景や造形などでは、被写体が動き回ることなどなく、フルフレーミングで撮れるはずだと考えるのが本来の姿だろう。ハッセルブラッドに代表される6×6判では、トリミングが常識化されているとも聞く。6×6判は画面がスクウェアだからこそ、他の画面比率と違った洒落た作品創りが出来るのだが。

最近ではクラブなどのグループ展だけではなく、個展の監修を任されることも増えてきた。しかし、作者が愛好家と言えどもトリミングをしなければ完成度が低いと思われる作品を選ぶことは極力避けている。グループ展では、大半が一人1点か数点の出品で、敢えてトリミングが必要なカットを選ばなくても他にもよい作品があり、本人に撮影時の曖昧さを助長させるような手助けをすることはないと思っているからだ。

しかし、トリミングで学ぶこともある。フレーミングの甘さや、カメラポジションの決め方やレンズの選択の間違いを知ることにつながるからだ。だからこそ、トリミングによって成り立つ作品は、完成度が低いと考えてもよく、発表するのは作者として恥ずかしいことであると思ってもよいだろう。習作と考え、その作品から得たものを次の撮影に生かすことも大切と考えている。また、同じトリミングをしても、元のフィルムサイズの画面比率で行うと、第2のフレーミングになり、写真の上達の早道となること、請け合いである。

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