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 No.177

三輪 薫(みわ かおる)


No.177 『写す』/個性と才能 2003/4/7

先日の僕も出品したコダックフォトサロン展の会期中、隣の富士フォトサロンでは「子どもたちのライトグラフィー」というカメラを使わないで暗室で作品を創る『フォトグラム』での作品展をやっていた。印画紙の上に様々な物を置き、露光する。光を透過しないものは白くなり、半透明なものはグレーになる。幼児を含む子供達の発想の豊かさには脱帽の作品が壁を覆い尽くしていて、圧巻だった。このような作品には、プロと言えどもこの魅力には勝てそうもなく、富士フォトの3会場の中では最も心惹かれた作品展だった。

この「子どもたちのライトグラフィー」を懐かしく観ていた。僕が写真学校で姉妹校のグラフィックデザイン科の学生に教えていた時このフォトグラムを行ったところ、ワイワイ、キャーキャーと実に楽しそうで、二十歳前後の生徒達がまるで子供に帰ったような生き生きとした表情を見せ、歓声を揚げていた。また、息子が小学校の低学年の頃、夏休みの宿題でこのフォトグラムの作品を出したことがあり、息子ながら面白い作品を創っていた。2〜3歳の頃には、僕が暗室に入ると「僕も一緒にいる」と流しに掴まりながら背伸びして現像液から浮き出てくる画像を眺めていた。その内眠ってしまい、「もう寝ろ」と言っても、「まだ見ている」と動こうとしなかったことが思い出される。

今は社会人となっているこの息子は折り紙も得意で、自分で考えてはビックリするくらい複雑な折り方で様々なものを創っていた。4年生の頃か、夏休みの工作で様々な星座を折って学校に持って行ったことがある。しかし、先生には親が手伝ったと思われ、ショックだったようだ。僕から見ても大人でも折るのが難しい独創的な作品だったので、そう思うのは勝手だが、そのような評価しか出来なかった先生の心の狭さが気になった。子供の素質を認めない先生など要らない。

子供は豊かな才能を持っていると思う。感受性も大きく、それらを発見し、伸ばしてやれば自信も湧いてくるだろう。しかし、現実には親が評価してやっても学校で否定されたら、本人は不信感を抱くことになる。学年が進むに従って何事も上手にはなるが、個性的な面白さや魅力に欠けてくるのは教育方針の欠如と思わざるを得ない。

現在、僕らが写真愛好家に接する時にも同じことが言える。歳は重ねていてもそれぞれに個性があり、感性も違う。その人達が撮る作品の中に、その人なりの感じた表現世界を見出し、引き伸ばすのが講師の役目であると思っている。しかし、個性的であるのは難しいものである。特に写真はカメラという道具を使って撮る以上、同じように写ってしまうことが大半であるが、個性は確かに表れる。しかし、写真学生のように将来のプロへの修行と違い、趣味として楽しんでいる愛好家の作品に対しては、個性尊重と言えど無理強いは出来ない。本人が興味を抱き、撮り続けて行きたいという想いと、魅力を感じないと僕が評価しても撮り続ける気にはならないだからである。

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