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 No.185

三輪 薫(みわ かおる)


No.185 『写す』/銀塩の素晴らしさと表現力 2003/6/21

現在、様々な分野でデジタルに移行する時代となっている。利便性を追求したり、その場で即結果を確認出来るのは、デジタル写真は適切な利用法かも知れない。しかし、撮る時の感触が何故か軽く感じてしまうこともある。つまり、緊張感が違うのだ。簡単に撮り直しが出来るデジタルと、現像が上がらないと本当のところは確認できない心構えの違いが現れるからではないだろうか。役者や俳優が、テレビよりも映画を、映画よりも舞台を選び、重要視する人がいるのはこのためだろうと思っている。

時代の流れに逆行することかも知れないが、銀塩世界には作家性を如実に表す魅力も秘めていると信じている。モノクロ写真を撮らずカラーのみしか行わない人と、モノクロでしっかり鍛えた人のカラー作品の描写や表現が違うような気がする。暗室の中で一人悶々と自分の作品と向き合い、表現とは何かを考え、自分独自の表現世界を探求する人は、知らず知らずの内に色のない世界に自分独自の色を見出す作業にも没頭しているからだろう。これらの違いが作風の編み出し方に結びついてくるのだと思っている。だから、写真愛好家を対象にした「カラー写真を撮るための黒白プリントのワークショップ」を何度も開催したことがあるのだ。アマチュアの方でさえ、モノクロ世界を体験し、研究することが必要と考えているのに、もっと思慮深く探求しなければならないプロがつまらない理由で敬遠したり、無視していることが僕には理解できない。

フィルムや印画紙のマチエールに込められた作家の思いや考え方や作風なども、デジタルとは一線を画していると考えている。銀塩とデジタルの両方で、カラーだけではなくモノクロも撮り、ファインプリントの制作もしていると、これらの違いがよく分かる。だからこそ、デジタルが便利とか、フィルム代が必要ではないからと言うような理由で、いとも簡単にデジタルに重きを置いてしまう考え方には付いて行けない。

デジタルによる作品創りにも関心が深いが、その底流には銀塩がある。銀塩でこそ作家性が遺憾なく発揮できる表現世界と考え実行しているから、デジタルとは何かを考え、デジタルならではの表現を探ることも可能と思っている。また、アナログで可能な表現をデジタルで行っても意味がないような気もしている。僕がフィルムや印画紙にも拘りを持ち続けているのはこのためである。印刷物からは感じられない微妙な機微が、印画紙の材質感から生み出す作家の語りかけや主張などを感じるからである。圧倒的な写真の強さは、銀塩に勝るものはないと信じている。

自分の想いを託すには、まず銀塩で行い、銀塩では不可能と判断したものに限ってデジタルを活用するほうが合っていると考えている。ストレートな描写力が合成を駆使した表現世界よりも強いのと同じだ。ストレート写真は、シャッターを押す時に決まってしまう。様々な出会いの中で、作者が何時シャッターを切るかは大切な表現の要素である。僕がコンタックスRTSIIを初めて使った時、「リアルタイム」と銘打ったカメラであることの大切さを思い知らされたものである。初めは軽く触れただけでもシャッターが切れてしまい困った。しかし、慣れてくると半押し状態で待機し、ここだと思った決定的な瞬間にシャッターを切ることが出来るようになった。カメラが肉体の延長として作動し始めたのである。考えてシャッターを切るのではなく、動物的な反応の早さでシャッターを切るのだ。

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