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 No.187

三輪 薫(みわ かおる)


No.187 『写す』/写真は「真を写す」か 2003/7/18

写真は「真を写す」と書くが、本当に真実を写しているかどうかは疑問なことも多いような気がする。写し手側の主観が入り過ぎたり、カラーでは色合いが現実の色とは違ってくることがあるからだ。しかし、特に色合いを重んじなければならないネイチャーの分野では、数十年前と違ってベルビアの発売以来、現実の被写体の色よりも誇張された色合いを出して当然と言う風潮がいまだに蔓延しているように感じる。晴れた日に、鮮やかタイプのリバーサルフィルムを使い、PLフィルターを併用すると、もう、現実の世界からは離れた表現や描写になることが多い気がする。しかし、何時の頃からか日本の写真界では、この方法が何故か支持されるようになってきている。
プロが行うから疑問も感じないで写真愛好家が真似をする。当然だろう。プロは確かなことをやっていると信じているからだ。しかし、僕と同じような疑問を抱いている少数派もいると思う。

レンズにも言える。肉眼で見た世界とは違った描写になる超広角レンズや超望遠レンズで撮ると、歪みが出たり距離感が変わって写る。超望遠レンズを使って群集を撮ると見た目よりも多くの人が集っているように写る。距離感の圧縮効果だが、これも嘘である。僕は、特別の理由が無い限りは広角レンズでもカメラを真っ直ぐに構えて撮ることが多い。インパクトを求めない場合には超広角レンズや超望遠レンズを使っても、その不自然な距離感を感じさせないような撮り方が好きだ。つまり、淡々と撮る。主観的な作画にするほど変わった映像が生れ、新鮮さが出てくるが、不自然で暫くすると見飽きてしまうことが多い気がするからだ。

こんなことを思うのは、photographを写真などと訳したからである。写心と書けばよいものを。僕が写真学校の学生の頃、「僕はプロになったら、画家や版画家のように作品を創って売る」と言ったら、非難を受けたことを覚えている。写真はグラフジャーナリズムであり、報道こそ写真の全てだと言うのだった。僕は、写真を一つの表現手段と考えていた。絵画や音楽や小説などと同じと考えていたのだ。写真が写心と訳したならば、真を写すなどと考えるようなことはなく、絵画などのように作者独自の作品創りが当たり前になる。表現分野によっては嘘でも本当でも何でもありで良いと思っている。色も現実の色ではなく、自分の心に響いた色合いでよいだろう。しかし、自然風景に関しては可能な限り自然そのままに近いに越したことはないとも思っている。僕の自然風景の描写は、心に響き、心休まるものを目指しているため誇張した描写は少なく、色を足し算することよりも引き算を考えることの方が多い。

作品創りの姿勢は結果が問題であり、その結果に行き着くためのプロセスは重要視していない。だからといって、軽んじているわけではなく、様々なプロセスを探り、研究し、結果にたどり着くには何をして、何を選ぶのがベストかを絶えず模索している。今回のデジタルプリント展「風香」や、昨年開催のファインプリント展は、そのような数十年に渡る作品創りへの模索と研究の成果であった。

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