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 No.199

三輪 薫(みわ かおる)


No.199 『写す』/デジタルと銀塩写真の表現 2003/10/17

7月に京都で開催し、11月に東京展が決まったデジタルプリント展「風香」では、645判のフィルムをドラムスキャンしてプリントしているが、どう見ても4×5インチ判カメラで撮ったように見えてしまうクオリティーがある。同じフィルムを銀塩のペーパーでプリントすると粒状もそれなりに出てくるが、デジタルではそれよりもかなり細かく見えるような気がする。ドラムスキャンの威力の凄さを思い知らされた。

だからといって細かければよいと言うものではなく、一方では写真の良さは粒子にもあると思っている。粗粒子写真は、作画と表現に合えば、返って超微粒子のものよりも魅力的で的を得た作画と表現になることがあるからだ。グラデーションは崩れるが、粗い粒子が印象度を増してくれる。だから、デジタルカメラの進歩が続いていても、初期のデジタルカメラの長時間露出による荒れが魅力ともなり手放せないでいる。マイナス点を作画によってはプラスに置き換えることも、作画によっては可能だからである。

粒状性がよいのがベストと考えるならば、銀塩では小型カメラは否定されてしまう。しかし、表現力のある作品は、大型の4×5インチ判や8×10インチ判カメラなどよりも小型カメラに軍配が上がることも多い気がする。だから、以前4×5インチ判が主流だったフォトライブラリーで、小型カメラで撮った作品だからこそ大判より高いギャランティーを提示したことがある。フィルムの大きさではなく、作品内容を重視したためだ。

益々盛んになり、主流となって行くデジタルフォトであるが、保存には一抹の不安が付きまとう。大切な作品の保存性を考えるとデジタルには割り切れない。今回の和紙への顔料インクによるプリントには安心感があるが、元のデータ保存には一抹の不安がある。フィルムであればカビにさえ気を付ければ長期保存には安心だし、コダクロームで撮っておけば耐色にも強く、必要なカットを捜すにもデジタルのモニターで見るよりもライトボックスの上でスリーブを見る方が早い。長く撮影に出ている時には、コンパクトフラッシュの数にも限界があり、ディスクに保存しても何が起きるか分からず、一瞬にして消えてしまう危険性もある。実は先日、何が原因が分からないが、数百時間も費やしてディスクに保存したものが、一瞬にして飛んでしまった。また、出先で撮影した作品の保存で、表示では全てを取り込めたはずが一部しか記録されていないことがあった。デジタルは何が起こるか分からず、二重三重の保存が必要である。やはり見えないものは怖く、心配だ。

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