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 No.202

三輪 薫(みわ かおる)


No.202 『写す』/その時代と自分を映す作品 2003/11/14

作品の表現や評価とは実に難しいものである。コンテストなどでは選者として関わることもあるが、新鮮な感動を受ける喜びがあると同時に、僕の評価をじっと見詰めている作者の鋭い視線を感じないでは出来ない仕事である。特に公開審査時などでは、会場にいる応募者達の一喜一憂するどよめきなどを背後に受けながらの進行は辛いものがある。誰しも評価を期待し、入賞、入選を期待して会場に来ているからである。クラブの例会での審査も、規模が小さいとは言え同じことなのだ。現実には作画と表現には優劣がある。しかし、ランク付けをすることはよいことばかりではないとも思っている。

写真学生の頃、小型カメラで今のハイビジョンサイズ的な細長い画面サイズで作品を創っていた。名古屋から上京して弟子入りし、その後勤め人になって初めての個展を、当時写真家への登竜門と言われていた銀座ニコンサロンで開催できた。この時の作品は、学生時代からの延長線にあるテーマの心象写真だった。あるカメラ誌で酷評を受けた。

この作品はオリジナルのカメラを作って撮ったものではなく、安易なトリミングと決めつけられてしまった。小型カメラの2:3の画面比率をもっと横長にした確かな理由はあった。しかし、その後同じような写真展を見たことがあるが、その辛らつな批判をした人がトリミングした他の作品群を僕の個展と同様の批判をしたのかどうかと言えば疑問である。

そのような有様で、若気の至りでカッカといていた僕に、名古屋時代の恩師の方から、「多くの写真展の中で、取り上げられることすら少ないのだから、批評に値する個展だったのだよ」と、慰めとも、考えて見ればそうかもしれないと思う手紙を納得づくで読んだ記憶がある。もっとも、その個展の作品表現としての批評は、結構評価してくれていた内容だった。だからこそ何故表面的なことに拘ったのかが気になった。

作品は永遠のものだが、時代によってその評価も変わるのが常だ。時代を超えて不変ならば、ゴッホやゴーギャンなどは、もっと、もっと、生き方も変わっていたと思わずにはいられない。悲しいかな、不変的な評価などはありはしないのかもしれない。

さて、今年7月の京都展では特別協賛のセイコーエプソン(株)のアート部門・エプソンピエゾグラフラボラトリーが主催してくれる東京展が15日から六本木で始まる。和紙へ出力したデジタルプリント展「風香」は、『写真で日本画を描いた日本の自然風景』だが、東京では皆さんにどのように受け取っていただけるのか楽しみである。(詳細は、個展の項で)

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