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 No.228

三輪 薫(みわ かおる)


No.228 『生きる』/匿名 2004/7/5

新聞のコラムや読者の声の欄などで、匿名での記事を見る。しかし、ホームページの掲示板では、大半が匿名である。何故なのだろうか。以前から実に不思議なことだと思っている。実名が分かっては困る後ろめたいことでもあるのだろうか。

先日知人から、「事実のことを書いたら、嘘つきだと非難された」と連絡があり、困惑していた。僕の知らないことならともかく、僕もよく知っていることだったので、何を根拠に嘘だと非難するのか、出来るのか理解できない。しかし、非難される方にも多少だが原因があると思う。その人のホームページを開いても実名はなく、匿名だからこそ事実が判明しないことにも繋がっているのではないだろうか。

サイトの掲示板で、かなり辛らつな言葉が飛び交っていることもあると聞いたことがあるが、実にナンセンスなことだと思っている。お互いが顔も見えなく、知らない者同志で、喧々囂々とやり合っても得ることが多いとは到底思えないからである。また、自分が相手に分からないからと言う理由が第一だろうが、先のイラクでの誘拐事件などにも、かなりの人達が被害者を非難する電話をしたり、メールがあったと聞いている。しかし、このような振る舞いは時間と労力の無駄で、被害者やこれらの掲示板を覗いている他の人達にとっても、決して心地よい会話ではない。ゲームなら、もっと楽しく行って欲しいと思う。

しかし、不思議なのは、プロフィールを書いていても、実体のその人が見えてこない、つまり実名がないだけにその人が見えてこないサイトが多いのは何故なのだろう。架空の人物で開設しているサイトなど、何処まで信用して拝見できるのか実にあやしいものだと思ってしまう。掲示板の提供者も発言者も特定できない状態で、発言していても手応えがあろうはずはなく、あると思っているならば、これほど悲しいことはないだろう。知らない者同志でも、何か事実を踏まえてこそ、見えてきたり、想像できたり、本音で語り合えるというものだからである。

いや、お互いが全く知らない者同志で、尚かつ無関係の間で見聞きするサイトなどでは、そのように真剣に考えたらいけないのかも知れない。そのような思いが強くなってからは、自分が知らない人のホームページを開けることもなくなったし、掲示板への書き込みなど一切しなくなってしまった。いや、掲示板への訪問など、毎夜のように行っている人からみると元々ほとんどしていないので、しなくなったという言葉が合っているかどうかも疑問であるが。

しかし、今は社会人になっている娘など、学生時代には帰宅後も先程まで一緒にいた友人と、再度長電話で話し込むことも珍しいことではなかったと記憶している。今の時代は、メールで同じことをしているのだろうか。電話は肉声が聞こえ、言葉の端端から言葉を越えたものを感じ取ることが出来たが、メールではそうはゆかないだろう。その内、肉声で語り合うこともない時代が来てしまうのだろうか。

それに比べると、仲間で開設している ML では、そのような危惧はないのが嬉しい。仲間同士の情報交換や、会話が楽しめるからである。メールは、記録も残るし、時間に関係なく送り、受けることが出来る便利なもので、僕の生活や仕事にも、今や必要なものになってしまっている。

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