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 No.236

三輪 薫(みわ かおる)


No.236 『生きる』/文明の利器 2004/8/28

我が家にワープロが入ったのは、20年くらい前だっただろうか。当時は自分で使おうと思うより、当時の文明の利器を手元に置くことに興味があったような気がする。子供の頃、当時でも少なくなっていた隙間だらけの茅葺き屋根のぼろ家でありながらも、冷蔵庫や洗濯機、掃除機などをいち早く買い込んで悦に入っていた今は亡き父に似ているのかも知れない。しかし、ワープロがありながらも原稿は鉛筆を削りながら書いていた。文字数が指定されていた原稿の手書きでの校正は実に大変で、妻にワープロで打ってもらい、下手な文章や文字数を確認しながら校正を繰り返していた。いつの頃からか手書きではなくフロッピーでの入稿をと言われ、仕方なくB5サイズのノート型ワープロとプリンタを購入した。

時は流れ、ワープロよりもパソコンだと言われるようになり、同タイプのノート型パソコンとプリンタを買い込んだ。何度となく頭の血管が切れそうな体験を繰り返しながらも、幸いにしてその寸前でくい止め、いまだに同じような思いで使っている。ファックスがメールに取って代わって便利なことは言うまでもないが、これらの方法や手段が全てとは思えないでいる。

小説家など、現在活躍している人達の全てがワープロやパソコンで書いているとは思えず、一方ではこの方法で活路を見出した作家も多いと聞いている。巷には、僕が現代の利器を最大に活用していると勘違いしている人も多いようだが、メールを始めた頃には添付書類を付けるだけでも半年を要した覚えの悪さは今も同様である。

写真でもアナログの権化を自負しているが、デジタルについてもセミナーや講演会で語っていたり、デジタルプリント展を三回も開催しているのだから面白い。デジタルはデジタルならではの魅力や可能性が大きいからだ。文章だけではなく、写真展のDMやポスターなどのデザインのチェックや校正も、今やパソコンなしでは考えられなく、文明の利器の有り難さも噛みしめているのも事実である。

だからと言って全てをデジタルに宗旨替えするつもりはない。極たまに万年筆を取り出して文字を書くと、実に新鮮である。パソコンなどで書いた文章は、何処か絵空事のように思えることもある。肉筆では、自分の血肉を分けたもののような気がするからだろうか。だからか、肉筆で書かれた手紙や葉書を受け取るのは嬉しいものである。日本フォトコンテスト編集長の板見浩史さんの文字は、実に個性的で魅力がある。写真家に頼まれて個展で展示の作品キャプションを書いたこともあるそうだ。

度々海外に行っていた頃、憧れの万年筆を数本入手し、ペン先を慣らすために通信添削などで常用していたこともあったが、何故か肉筆ではほとんど書かない日々を送っている。

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