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 No.325

三輪 薫(みわ かおる)


No.325 『写す』/写真表現のオリジナリティーと作風 2007/2/25

カメラ誌に掲載の撮影データを見ると、特に自然風景の写真にはビックリするほど同じようなデータが溢れている。銀塩写真ではカメラとレンズとリバーサルフィルムの銘柄が同じなら、様々な被写体や撮影条件があるにせよ、同じような作品に見えることは避けられない。だから、個性豊かな描き方ができる絵画のような作家独自の表現をすることは難しく、余程の作風の違いがない限り、誰の作品なのかが判別できないことが多い気がする。だからこそ植田正治氏の作品のように一目見ただけで作者が分かることは凄いことだ。

写真では、その人独自の機材やフィルムや被写体や撮影条件の選択が重要視されて当然と思うし、モノクロのフィルムや印画紙の選択にしても同じである。しかし、現実には個性ある選択は少ないようだ。しかし、世の中に溢れた同様のデータによる撮影でも先駆者は構わない。その人自身のオリジナルであるからだ。

その点、デジタルフォトでは、銀塩のリバーサルフィルムに比べるほどの再現の違いは少なく、後処理によって作者独自の表現を引き出すことができる。だから、銀塩に比べ表現の多様性ははるかに大きくなるはずである。このデジタルの特性を自分の作風の構築に活かすためには、メディア(用紙)やプリンタの選択、後処理も重要である。限られた選択肢しかなかった銀塩に比べ、デジタルが何と自由なことか。

しかし、現実にはデジタルフォトを銀塩にとって替わるものだと勘違いしている人もまだまだ多いようである。写真の世界では、銀塩とデジタルは全く別物であると考えている。その上で、今こそ、銀塩で、デジタルで、何ができるのかをもう一度考えてみるよい機会だと思っている。グレゴリー・コルベール展の作品は、銀塩とデジタルの融合によって初めて可能になった表現世界だろう。

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