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 No.400

三輪 薫(みわ かおる)


No.400 『生きる』/美しい魅力のある日本語の歌詞とメロディー 2007/8/10

僕は歌謡曲が好き、演歌も大好きである。メロディーではなく、詞と曲が一体になった歌が好き。だから、民謡も好き。何故か10代の頃には、ビートルズには全く関心がなく、歌謡曲のドーナツ盤のレコードを買っていた。だからと言って、現在CDを一杯買い込んでいるわけではない。

今は亡き美空ひばりは、僕が知る歌い手の中で最も好きな歌手である。僕が生まれ育った山間の関ヶ原にも子供の頃には映画館があり、映画大好きだった僕は度々観ていた。しかし、田舎町の映画館の入場料が安いとはいえ、子供にそれほどの小遣いがあるわけではない。映画館の経営に関係している人の息子が友達で、裏口から入れてもらって観ていた。最も多く上映されていたのは時代劇が多かった東映映画だった。大きなスクリーンに映し出された美空ひばりの、当時は可愛い姿に、子供ながらも心をときめかせながら食い入るように眺めていたのが懐かしい。当時の映画では、日活なども含め、何故か映写中に主役が歌を歌っていた。よくよく考えると時代劇の中で歌謡曲を歌っていることは実に不思議なことだが、子供だった僕には、そのような疑問は全く感じていなく、ただただ、うっとりとスクリーンを眺めるだけだった。

作詞家の阿久悠さんが亡くなった。様々な歌詞を実に驚くほど多くつくっているが、共通して言えるのが、作詞家として日本語を大切にしてきたと言うことだろう。今は亡き尾崎豊の信奉者がいまだに多いのは、彼が歌う歌詞から人生を感じ、若者に生きる勇気を与えてくれるからだと思っている。現在の僕が聴いても心打たれるものが一杯ある。「うた」は「歌、詩、唄」と書く。現在の作詞家に、このことを理解している人がどれだけいるのかと思ってしまう。最近の歌には、歌詞などどうでもよいとさえ思われるようにしか聞き取れないものが結構氾濫しているような気がする。作詞家として、疑問を感じないのだろうか。

しかし、歌詞が分からない、理解できない曲が嫌いなのではない。歌詞が意味不明だからこそ、メロディーを楽しめる。だが、僕も若くはないので、耳をつんざく音量でしか聞けないような歌には閉口する。騒音としてしか聞けないからだ。捉え方は違うが、最近はやっている「千の風になって」の歌は、どうにもフィット感を抱けない。あの間延びした歌い方が、歌詞の内容は別にして、僕には心地よくないからだ。

古い話だが、フランク永井が「君恋し」を再び大ヒットさせたように、同じ歌でも歌い手が替わると聴く側にとっては随分印象や感銘が変わってくる。そのようなことを考えると、この「千の風になって」の歌を、もし、阿久悠さんが訳詞していたなら、あの歌手に歌わせていたかどうか、かなり疑問に感じる。この歌は、声量があるからと言って、心に響くわけではないと思っている。だからこそ、受け、評判になっていることがどうにも理解できないのだ。TVのある音楽番組で違う歌手がそっと優しく歌っていたのだが、じんと心に響くものがあった。

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