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 No.429

三輪 薫(みわ かおる)


No.429 『写す』/銀塩写真とデジタル写真の行く末と方向 2008/3/29

今回の個展「風光-V」は、展示の作品を全てフィルムからの銀塩プリントと、フィルムをデジタルデータ化した伊勢和紙によるデジタルプリントで展示した。会場にいて改めて思ったことは、写真の本質は、やはり銀塩であることを思い知らされたことだった。

写真界もデジタル化を迎え、今日益々デジタル化が進む中、雑誌や新聞などの写真原稿の大半がデジタルフォトになるのは仕方がないが、作品表現としては、まだまだ銀塩は健在であることを自己確認し、来場者のみなさんにも再確認していただけたと思う。僕が風景写真に求める空気感、その空気感から発せられる臨場感の表現は、多分にフィルムの乳剤による粒状性がかもし出してくれていると思っている。この粒子によって二次元の写真の中に三次元の世界を感じさせる奥行き感や立体感も引き出してくれるからだ。
       
だからといってデジタルを否定するものではなく、デジタル化によって得たことも、銀塩ではなしえなかったことが実現できたことも多い。今回、2003年に初めて和紙にプリントした個展「風香」よりも大きなサイズ(1100mm×2400mm)の和紙にプリントした茫洋とした海の写真は、横幅56mmのセミ判フィルムを長辺1900mmに拡大することによって、小さなプリントでは粒子の間に隠れて見えない部分までも現れてきたことによる表現効果も大きかったと思っている。ここまで拡大すると確かに粒状性は粗くなる。しかし、この粗さが現実の風景を目の当たりに眺めているような雰囲気をかもし出してくれるのだから面白い。大型プリントだからと言って、4×5インチ判や8×10インチ判のフィルムからプリントしていたならば、このような雰囲気を引き出すことは出来なかったはずである。

現在、次々と発売されるデジタルカメラの画素数は多くなるばかりで、中級機は銀塩フィルムの4×5インチ判に迫り、高級機は8×10インチ判のフィルムで撮ったのではないかと思われる再現性を見せてくれる。もはや、きめ細かな描写性を求めるのに、銀塩フィルムで手間暇掛けて撮影する時代ではないのかも知れない。しかし、今回のセミ判で撮り、長辺1900mmに拡大した画面から受ける印象を、この高画素数のデジタルカメラに期待しても、多分応えてくれるのは難しいと思っている。最近、デジタルカメラでのモノクロ作品創りも多くなっているようだが、何と銀塩プリントに似せるために、わざわざ銀塩の粒子に感じるものを重ねてプリントしたほうが結果としてよい作品になると言う、実に不思議な方法を選んでいるのが実情である。これは、間違っているとは言えないまでも、デジタルは銀塩とは違ったデジタルならではのよさがあり、銀塩の真似をしても仕方がないと思っている。このナンセンスと思える行為は、銀塩とデジタルは別ものとして考えるのが本命であることを示している。

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