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 No.463

三輪 薫(みわ かおる)


No.463 『生きる』/人生や人の出会いの不思議 2009/1/1

人生、何が不思議で魅力かと言えば、人との出会いに尽きると思っている。かなり気ままに生きてきたが、反面自分には真面目に、正直に生きてきたと言う思いも強くある。そのような僕でも何とか写真界で40年近く過ごしてこられたのは、多くの人との出会いがあったからで、それらの方々や、妻や親族も含め、とても感謝している。

高校時代には勉学を怠け、その割には望みも高くて大学進学がかなわず、家業の塗師を継いだ。しかし、あっさり4年で止めて名古屋のデザイン学校の写真科に入った。筋がよかった僕への期待感も強かったはずの父は何も言わず、学費を出してくれた。卒業後、上京して弟子入りするときも同じだった。この弟子入りにも、僕なりの拘りがあり、誰でもよかったわけではない。東京の先生との出会いも、写真学校時代に時々上京していた時に知り合った銀座ニコンサロン館長からの紹介だった。これがプロへの出発点になっている。

弟子入りから約2年後に結婚を機にフリーになったのだが、仕事の目処が立たず、諦めて名古屋の写真学校の東京本校教務課に勤めた。名古屋校に勤めていた妻の上司である事務長の紹介だった。ここも7年半ほどで退職。この退職時には、亡き秋山庄太郎先生が送別会にも来てくれ、暖かな声を掛けていただき、仕事も紹介いただいた。結果的には余り収入には結びつかなかったが、気持ちは嬉しかった。紹介されたのは銀座の松屋が提携したアメリカの通信教育の学校で、僕が受け持った生徒さんの一人が、当時は東京にいて、現在は大豐和紙工業(株) 社長の中北喜得さんだった。詳細は覚えていないのだが、ガイダンスで僕を選んだのだと後で知らされ驚いた。奥さんとは吉祥寺駅前にあったカルチャーセンターの受講生として出会った。中北さんとの出会いがなければ、初めての和紙プリントによる個展「風香」は実現していなく、以後の和紙プリント展もどうなっていたか分からず、これも嬉しく不思議な出会いの結果である。

以後、様々な多くの方々との出会いがあり、それ等の方々の進言や紹介された仕事をこなしながら今日に至っていると言っても過言ではない。僕は営業が苦手で、自らのことを売り込むのは、もう、苦手を通り越している。徳川家康ではないが、じっと待っているタイプだろうか。それでも今まで作品を創り、個展などで発表し続け、「わの会」も含め、多くの人に囲まれながら暮らして行けるのは、まるで夢のようなことであるとも感じている。自分で言うのも変なことかも知れないが、作品創りを真面目に行い、お世話になった方々に期待されたかどうかは分からないが、自分で思い期待する以上の結果を出してきたからだろう。余裕のある生活とは縁遠いが、個展も25回以上も何とか開催しながら生きてきたし、僕の全ては「作品創りに始まり、終わる」と信じている。

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