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 No.489

三輪 薫(みわ かおる)


No.489 『写す』/大判中判カメラの楽しみ-2 2009/10/1

写真界がデジタル志向になるに従い、撮影時の心の充実感や作品を創る喜びは銀塩フィルムのほうが高くなると思っている。2006年に「わの会」で発足宣言し、2007年に写真展も開催した『大判中判カメラ同好会』は、当時にはデジタルカメラの進化が数年後には35ミリカメラを銀塩から奪い去ってしまうと考えたからである。今まさにそのようになってしまったが、写真展開催以降、活動は沈滞気味である。銀塩写真がまだまだ素晴らしいといっても、世の中のデジタル化に肩を並べて活動するほどには至っていないのが口惜しい。

世の中便利になるほど逆の不便さを求めることもある。最近受け取る便りなどもワープロからパソコンに変わり、手書きはめっきり減っている。僕も同じだ。印字された文章には味がないし、手紙よりメールが大半になってきている。事務的な仕事ではまことに便利であり、原稿のチェックなどには欠かせなく、仕事柄、宅急便と共に今やなくてはならないもので、時間の節約にも一役買っていると痛感している。

しかし、日常生活の中では便利さだけを追求していて、果たして心がが満たされるかどうかと言えば疑問である。カメラも同様で、AE/AFの便利さと確実さは認めるが、撮っていて楽しいかと言えばそうではない部分もある。対象をゆっくり見て、メカニカルカメラを構え、じっくり撮る楽しみもある。メカニカルカメラには心の充実感がある。中判カメラを買いたいという方には露出計も内蔵されていないメカニカル機種を勧めることがあるのは、写真を撮る楽しみを味わって欲しいと思うからである。長い人生、慌てず、のんびりと過ごし、写真と付き合う嬉しさや幸せもあると思う。

この至福の時を味わえるのは大判カメラが一番だろう。カブリを使ってピントガラスを覗き、ピントの位置をルーペで確認し、露出も単独メーターで測り、シャッターと絞り値をセットし、おもむろにフィルムホルダーを取り出して撮影する。時代に逆行した撮影だからこそ充実感に満ち、楽しいのだと思っている。だからというわけではないが、Hasselblad では35年近く前からプリズムファインダーを多用せず、ウエストレベルのファインダーか、同様のマグニファイングフードを常用している。ピントガラスをじっくり眺めるのが好きだからだ。

田舎の改築された家でも、縁側がないのも珍しくないようだ。縁側は人との対話や憩いの場所でもある。お茶を飲み、漬け物をかじりながらのんびり話して過ごし、温かな日差しを受けてまどろむのも生活の一部だったはずである。合理的な生活空間になって失われてゆくものも多い気がする。写真の世界も同様だろうと思っている。今年は、暫く休憩していた大判の世界も、心ゆくまで楽しもうと思っているのだが、思うように進んでいないのが、我ながらちょっと寂しい。

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