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 No.561

三輪 薫(みわ かおる)


No.561 『生きる』/終戦記念日に思うこと 2011/8/16

1948年(昭和23年)生まれの僕には、悲惨だった太平洋戦争の実感はない。8月を迎えると毎年のようにこの戦争のことや広島と長崎に落とされた原子爆弾の記事が新聞に記載され、TVでは映画やドラマも連日のように放映されている。今年は、東日本大震災の津波で事故が起きた、いや、事故を起こした福島原発のこともあり、ことさら例年とは違った思いで記事を読み、TV画面を見つめている。先月には「知覧からの手紙」(水口文乃著/新潮文庫)を読んでいた。人間は何故に戦争を起こすのだろうか。日本だけではなく古来から争い事は絶えない。それを先導する一部の人のエゴによって起きている争い事も多いのではないだろうか。時代によって争い事を起こす条件や原因は違うだろうが、他人をおとしめても自分さえよかったらとの思いが争いを生む。

国土が狭く地震国の日本には資源が少ないと思わされてきて、発電も原発優先を誘導されてきたのだろう。しかし、原発を多く設置するに従って核のゴミも増え、54基もの原発からはき出されるこの処理は、孫子どころか気が遠くなるほどの末代まで背負わなければならない。この現実を考えると、人が作り出した原子力には絶対安全、安心ではないことが素人の僕らにも分かる。原発の恐ろしさも、原発を取材した知人の報道写真家から40年近く前に知らされていた。以後、自分では原発反対と思っていても、声高に叫び、世間全体にアピールを続けてきた訳ではない。行動を起こせない自分が情けないと思うこともある。

それにしても、2度原子力爆弾を落とされ、今回原発の大事故を起こしながらも、絶対安全とは言えない原発を輸出しようと画策し、原発がこれほど多くなくても節電さえすれば何とかなりそうなのに、まだ原発を維持し、増やそうとする政治家や官僚がいることが理解できない。狭い日本に54基もの原発を作り、原発の津波対策を怠り、企業利益を追求した付けは大きい。この先原発を止めるにしても、これだけ多くの原発を処理するには今後も原発の研究を進めないと無理というジレンマもある。このような甚大な事故を起こしても、反省の心が原発を推進してきた多くの議員から感じない。現在も被災地、被災者無視の政争に明け暮れている政治家が多すぎるのは、実に情けなく、哀しいことだ。

菅総理の次の総理が原発を少なくし、日本からなくそうとするのか、増やそうとするのかは分からない。このような方向性を最終的に決めるのは立法府を担う政治家だが、多くの国民の意をくみ取らない政治家もいる。民主党が政権を取ったのも、自民党に愛想を尽かした国民の意思の結果であるが、政権を取った後には、沖縄の基地問題も含め嘘だらけの裏切りの政党であることは誰もが現在は分かっている。初代の嘘つき総理を選んだ選挙民の責任は重い。その元総理の言動を現在も伝え続けているマスコミの責任はもっと重い。新聞やTVに登場させるなど、もっての他である。国民を裏切った政治家のことなど見たくないし、記事も読む気がしない。

僕らの子供の頃には、「将来、何になりたいか」と聞かれれば、「総理大臣」と答えた仲間もいた。政治家はそれだけ尊敬されていた訳だ。しかし、現在の子供達に同じことを尋ねたら、一体どれくらい「政治家になりたい」との声が上がるだろうか。賢い子供は狡い大人をしっかり見ている。だからこそ、これからの日本をよくしたいと願う政治家志望の子供を育てる必要がある。借金地獄の日本だが、自分たちの歳費を減らし、議員や官僚も減らして被災地の復興支援に回そうとの意見が議員や官僚たちから聞こえなく、行動を起こさないのが貧しい日本の政治を物語っている。実に情けない。この情けなさを生み出しているのが目先の利益を求める選挙民にもあることを思い知るべきだろう。

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