三輪 薫(みわ かおる)
No.569 『生きる』/節電とエコな生活-2 2011/11/10
東日本大震災で、今更ながら便利な世の中のインフラが崩壊した時の生活のもろさを思い知らされた。子供の頃の関ヶ原の実家は水道がなく井戸水だった。しかも、滑車で桶を釣り上げるのではなく、手桶を投げ入れながら水を汲み、台所の大きな瓶に溜めていた。この桶だが、なかなか思うようには沈んでくれなく、水を汲むのも難儀した。日差しが強い夏場には、井戸水を汲んで数多くの大きな「たらい」に入れ、天日で暖めて風呂桶に入れていた。手作業のソーラーシステムだった。これは主に子供の役目であり、現在と違って田舎には子供とは言え日々の生活の担当があった。勿論と言っては何だが、風呂も薪で沸かしていた。これも大半子供達の役目だった。現在のように子供は塾にさえ行っていればよいという生活ではなかった。
僕は塾には一度も通ったことがない。当時でも学校に行くと塾通いの同級生達が楽しそうに話していて、父に頼んだこともあった。しかし、「分からないことがあれば先生に聞けばよい」と言われただけである。塾通いさせるなど、余裕がなかったのだと思っている。また、トイレも水洗ではない屋外にある別棟の厠。夏はいいのだが、降雪の中の冬は辛かった。また、夕食後に宿題などをしようとしていたら、勿体ないと祖父に裸電球を消されたことも度々だったことを覚えている。50年以上前には、誰もが節電に励んでいたと言える。人間、明るくなったら起き、暗くなったら寝る。ある意味、実に健康で、エコな生活だったと思っている。
電気に関しては物心が付いた頃には裸電球だが各部屋には1個天井からぶら下がっていた。配線は碍子丸出しで、現代の家には当たり前に壁に付いているコンセントもなく、裸電球のソケットが二股の1個がコンセントになっていた。つまり、他の電化製品を使うには、電灯からのたこ足配線になるわけだ。だから、ヒューズが飛ぶのは日常茶飯事のことだった。ミシンだって足踏みタイプで、今から思うと芸術品的な美しさである。僕はこのミシン掛けが得意で運針も上手だった。また、小学生とはいえ農繁期には時々夕飯の仕度なども手伝っていた。当時の家庭科の料理実習では炭火コンロの火お越しから始まり、慣れていたので誰よりも早く準備できた。また、本番の料理も普段行っていたので僕が作るのが最も美味しいと評価された。結果、家庭科の通信簿は男子で唯1人、最高ランクの「5」だった。ミシン掛け、運針、料理などが得意だったのだから当然の結果である。