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 No.577

三輪 薫(みわ かおる)


No.577 『写す』/コダックフィルムへの憧れ 2012/2/1

小学生の頃には、確か駄菓子屋さんに売っていた日光写真のプリントを楽しんだり、1カットが10ミリ角くらい小さな画面のフィルムを使う玩具カメラで撮ったりしていた。3年か4年生の頃には向かいの家の高校生だったお兄さんが自家製の引き伸ばし機でプリントをしていて手伝ったことが度々ある。まあ、手伝うというよりも興味があって覗かしていただいていたというほうが正しいだろう。赤い電球の下、現像液の中から画像が浮かび上がるのを眺めていて凄く感動したのを覚えている。中学生の頃に、母方の叔父から二眼レフカメラをいただいた。ローライフレックスの日本判で、ハッセルブラッドとも同じ画面サイズの66判である。しかし、ブローニーフィルムも高く、12枚撮りながらも正月が2回写っていた。当時の田舎ではそれくらい貴重なものだった。

高校に入った頃には運動部ではなく新聞部に属していた。中学卒業前に体調を崩し、高校1年時には運動を禁止されていたことと、小学生の頃には4年頃から学級新聞をガリ版刷りで作り、中学時代も卒業時まで新聞部に係わっていたからでもある。高校時代の新聞部では記事を書くのではなく、もっぱら掲載写真を撮っていた。カメラでそれなりに記録的な写真や作品作りに芽生えたのは、この新聞部で撮影を担当していたことがあるからかも知れない。高卒後は大学進学を諦めて家業の塗師を継いだのだが、近所にカメラ好き、写真好きの方がいて、誘われて撮影に行くようになっていた。押し入れでの自家処理の暗室作業を始めたのもこの頃だ。しかし、使うフィルムは富士フイルムとコニカ。コダックやアグファなどは高額すぎて手が出なかった。4年間の塗師修行を止め、名古屋の写真学校(正式にはデザイン学校の写真学科)に通い始めてからも同じで、1本の35ミリ判カラーフィルムを買って現像すると10時間くらいアルバイトをしないと払えなかった。

コダックフィルムへの憧れと期待感は大きく、何時かは思う存分使ってみたいと思い続けてきた。まずはモノクロ100フィートの長巻きのトライX。次は1本箱入りパッケージのトライX。次はエクタクロームやコダクロームである。40年ほど前のプロの人達が使っていたのは、カラーも含め大半コダックのフィルムだったのではないかと思っている。だから余計にあこがれていたわけだ。

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