Toppageへ
 No.617

三輪 薫(みわ かおる)


No.617 『生きる』/時代の移り変わり 〜大内宿〜 2013/6/25

5月下旬のキヤノンフォトクラブ東京第5の上期撮影会では福島県の観音沼に行き、大内宿もご案内した。大内宿は茅葺き屋根の民家が街道の両側に40軒余りも軒を連ねた古い宿場街で、現在では年間に100万人を越える観光客が押し寄せる一大観光地になっている。今年は梅雨入りがかなり早かったせいなのか、結構な雨の中でも次々と観光客がやってきて、平日にも関わらず蕎麦屋の土間には列をなして待つ人達がいて驚いた。僕らは幸いにも予約していたお陰で待つこともなく、予定の時間にはいろりの周りに座って名物のネギ蕎麦を美味しくいただくことができた。

大内宿を初めて訪れたのが1972年の初夏で、名古屋の写真学校で学んでいた時だった。報道写真の基礎を教えていただいていた先生の助手として同行した。この時訪れた奥会津の村々ではまだ茅葺き屋根の家が実に多く、懐かしい思いで眺めていた。と言うのは僕が生まれ育った関ヶ原の実家も二十歳頃まで茅葺き屋根の家で、当時の関ヶ原でも数少ない珍しい家だった。大内宿では街道に面した家の前には細い水路があり、きれいな水が流れ、お母さん達や女の子たちが野菜を洗ったりしていた。また、竹で編んだカゴをしょって桑畑から帰ってくる母子の姿も見られた。僕の子供の頃には親と一緒に農作業をし、風呂焚きや久土用に山で枯れ木や落ち葉を集めて背負って帰ったものだが、当時の僕の田舎と比べても20年くらい昔の暮らしに見えた。

大内宿は1981年に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され、旧宿場としては長野県の妻籠宿と奈良井宿に続いての全国で3番目に選定されたものだが、これだけ茅葺き屋根の民家が一カ所に並んで保存されているのは大内宿だけだろう。1970年代後期の「ディスカバージャパン」のキャンペーンにも大きく取り扱われ、一大観光地へと向かい始めている。初めて訪れ時には観光客など誰も見ず、その時大内宿にいたよそ者は僕らだけだったと思う。また、お母さん達はもんぺ姿で働き、子供達は真っ赤なほっぺ、はな垂れ小僧だったりと、僕の小さい頃と同じだった。子供は家事や農業の手伝いをするのは当たり前のことで、現在のように塾に通って勉強だけしていればいいということは全くなかったと思う。どちらかといえば勉強よりも家の手伝いが優先だっただろう。だからか、家族の絆は現在よりも強かったのではないかと思う。僕の子供の頃には「銭はなくても楽しい我が家」ということばをよく耳にしたものだが、当時の奥会津の村々でも、貧しくとも明るく懸命に生きているように感じ、自分の人生と重ねて思っていた。

戻る