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 No.642

三輪 薫(みわ かおる)


No.642 『生きる』/自然と文明の利器 2015/10/13

我が家のテレビはごく普通の液晶画面であるが、ブラウン管のテレビに比べると格段にシャープな画面と言える画像を見ることが出来る。時々、ブラウン管時代の画像が番組で流れることがあるが、「こんなにピントが甘かったんだ!」と思ってしまうほどの画像で驚く。ブラウン管時代の当時は、テレビ画面はこんなもんだと思い込んでいたのでたいした疑問も感じなく眺めていたような気がする。

時代が進むにつれ、世の中にあるもの全てと言ってよいほどに進化している。水は蛇口をひねれば出るし、スイッチを押せば照明も点き、冷房や暖房も自動で出来る。料理も薪を焚いたり炭を熾したりするのではなく、ガスコンロが普通である。下水道が発達した現在ではトイレも快適である。このように文明の利器に囲まれた生活は実に快適である。しかし、先月に起きた鬼怒川の氾濫のように自然が暴れ、大災害を受けると、これらの現代の文明の利器は全て使い物にならなくなる。自然はあくまで自然で、文明がどれだけ進化しようと、人間の力と知恵などだけでコントロールできる訳ではない。地震や津波、火山の噴火などを人の力や知恵で止めることは現在の文明の力では不可能である。自然に逆らわず、素直に受け止めながら、被災を最小限に止める方策を考え、対応するしかない。最も危険なのが人間の慢心だと思う。

先日の新聞記事で2011年の東日本大震災で東電の非常用発電機が津波を受けて作動しなかったにもかかわらず、4年経った現在、この教訓を生かした対応をしている自治体が余りにも少ないと記載されていた。鬼怒川の堤防決壊で被災した常総市の市役所の非常用発電機も水没して使い物にならなかったという。役所の屋上ではなく、水没してしまう地下に備えている自治体もあるとかで驚くどころか呆れてしまう。また、一旦災害があったら数日で回復できるとは限らず、非常用発電機も1週間くらい動かせるようにしておくのが当然と思ってしまうが、そのような対応をしている自治体は極少数という。「まさか、我が市には災害が来ることはあるまい」との考えがベースになっているのだろう。

僕は一時期「石橋をたたいても渡らない」と言ってもいいくらいに慎重な時代があったような気がする。個人は真逆な生き方や行動をしても構わないが、政府や自治体は「石橋をたたいても渡らない」くらいの慎重さと災害などに対応出来る方策を幾重にも考え、その方策に沿った行動をして欲しい。自然を侮るといかに怖く、自然を真摯に見つめ、大切にしないとしっぺ返しがくることを肝に銘じるべきであることを心にとどめておきたいと思っている。自然の大災害を文明の利器で全て防ぐことは不可能である。自然と如何につきあうかを、日々考えておくことも大切なことだと思っている。

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