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 No.664

三輪 薫(みわ かおる)


No.664 『写す』/道具としてのカメラ 2018/5/1

僕が初めて写真と関わったのは小学生の頃の日光写真でした。フィルムで撮る写真は、玩具同然の1コマの画面サイズが1センチ角のカメラで、確かシャッター速度も1/30秒とB(バブル)しかない手のひらに載る小さなカメラでした。中学生になった頃、叔父に戦後作られた国産の二眼レフカメラをもらって撮ったのがまともなカメラでの撮影初体験でした。しかし、当時は、モノクロフイルムといえどもかなり高く、あるときには1本のフィルムに正月が2カットも写っていたほどです。

レンズ交換式の1眼レフカメラを使ったのは、高校に入学し、新聞部に入って写真担当になったときです。確か、レンズの装着がスクリュウ式の旭ペンタックスS2。レンズは50mmの1本のみでしたが、初めて触り、シャッターを押した時の感動や嬉しさは格別で、プロのカメラマンになったような気分でしたね。その後、小遣いや昼食代などを貯めて頭金にし、残りは父に頼んでキヤノンFPを買いました。メカニカルカメラで、測光のメーターもない実にシンプルなカメラです。高校在学中のだらしない生活のため、目標の大学入学にはほど遠くなって、当時興味を抱いていた家業の塗師を継いだ頃、趣味としての撮影を楽しみ始めました。近所にも僕より年配で写真が好きな方が二人いて、時々一緒に撮影に出かけたりしていました。

フィルム現像をお願いしていたカメラ店がバックアップしていた企業のカメラクラブに誘われて入会し、撮影や作品創りの楽しみも徐々に増えてきました。当時は交換レンズも35mmと100mmの2本が加わり、標準レンズだけで撮っているより表現の幅が拡がってきて、例会での評価も高く、それならとカメラ誌月例への応募もしました。しかし、誰の教えもなく自己流で撮っていたこともあり、当然ながら予選通過すらなく、自分の力量を自覚した次第でした。その後、写真家になることを目指して名古屋の専門学校で写真を学んでいたのですが、プロの先生方のカメラを見て、道具としての憧れも抱きました。家業の塗師をしていた頃に出合った木彫家や宮大工さんが使う彫刻刀や鉋とノミの切れ味は格別で、腕のいい人ほど使う道具のレベルも高いのを見て、カメラも同じとの思いを抱きました。以後、可能ならば、自分が写真を撮り、作品を創る道具であるカメラやレンズなどは世界最高峰のもので揃えようと決心しました。銀塩時代ではそれらの道具の満足感や信頼感も高く、いい機材なら数十年も使えました。しかし、デジタル時代では世界最高峰の機材であっても、寿命はたかだか数年。実にやるせなく、写真機材への憧れをもてなくなってきたのがちょっと寂しいですね。

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